02.皇道産業焼津践団

先月号では、皇道産業焼津船団が、日本軍の許可を得、北ボルネオ・フィリピンへ行動を開始した事をお話しさせて頂きました。
その後、日本軍は東南アジア圏での敗走がはじまり、皇道産業焼津船団も戦争に巻き込まれ始めます。

《北ボルネオ島での行動》
北ボルネオは日本軍南方占領地域の真ん中に位置していた為比較的安全地帯と見られていた。
(松村庄之助と皇道産業焼津船団より)

北ボルネオ島は南シナ海、スルー海、セレベス海、ジャワ海に囲まれた世界の島の中では3番目に大きな島です。1943年(昭和18年)4月21日3隻の漁船は北ボルネオ島に上陸しましたが、当初の『南方の占領地域に焼津の港町を作る』という目的は達成されませんでした。

北ボルネオ島に上陸した船は、漁を行っても利益を得る事がほとんど出来なかったのです。当時の北ボルネオでは日本軍占領前の市場公定価格を踏襲している為、物価が日本よりも安い為でした。また、乗組員も高給の日本人が多く乗っていた事も影響していた様です。

皇道船団側も黙っていた訳ではなく、再三、北ボルネオの監督官庁に魚価の適正化を懇願しましたが、受け入れられる事はありませんでした。

この状態は、北ボルネオに行動を開始してから約2年間続き、不適正な魚価に拘束されていた為、事業成績は極めて不利な状況を強いられてきました。

但し、戦時下での軍政から見ると現地で暮らす人々の生活を考慮したとも考えられます。当時は戦時中であり、占領地域の民衆に考慮した軍政を行わなければ、この地域の治安維持が保たれなかったのかもしれません。

結果的には、鰹節に使用するほどの漁獲量も上がらずに鰹節製造の目的を果たす事無く終戦を迎えました。しかし、皇道産業の団員たちは鰹漁業を諦めた訳ではなく、カツオ船に乗り込み、ボルネオ島のクチンからサンダカンへ向かいました。

この途中で団員たちに不幸が襲いかかります。移動途中に日本軍第三十七軍司令部に船ごと徴用されてしまうのです。
軍属として油輸送任務中に敵機の攻撃を受け、座礁沈没してしまい、無事救助されたのは10名でした。

船員達はクチンに戻る為、徒歩で灼熱のジャングルを歩き、マラリアと闘いながらクチンに付いたのは29日後でした。クチンに付いた時は10名が4名に減っていました。

Borneo Topography.png