02.皇道産業焼津践団

先月号では、皇道産業焼津船団の団員達がボルネオ島のクチンからサンダカンへ向かう途中の悲劇に付いてお話しさせて頂きました。
今月は、皇道産業の団員達が迎えた最大の試練についてお話しさせて頂きます。

《ラブアン島の玉砕戦》
1944年5月、日本軍の軍命によりボルネオ団(焼津践団)では水産物を確保して軍に納入する為、ブルネイ・ラブアン島に出張所を開設しました。

しかし、この出張所に配属された団員はほどなくして、軍の独立歩兵第三七一大隊に召集されラブアン島玉砕戦闘に巻き込まれてしまいます。

同年11月にボルネオ団員(日本軍に召集)はサンダカン地区の対空防衛警備に当たっていましたが、軍の作戦命令によりサンダカンからラブアン島へ転用となりました。

※ラブアン島は、現在のマレーシア領で南シナ海に浮かぶ島です。現在はリゾート地となっています。

ラブアン島は熱帯雨林気候で年間を通して降水量が多く、太陽高度が年間を通して高い為に気温は年中高く、湿度も高い環境です。
当時は戦時中ですから敵に見つかる事を避ける為に道なき道を行く過酷な環境を行軍した事になります。

そのためマラリアやアメーバー赤痢等で多くの犠牲者を出しました。
独立歩兵第三七一大隊は結成時、959名(ボルネオ団約20名)でしたが、翌年3月末にラブアン島に到着した時には、452名にまで減ってしまいました。

ラブアン島に上陸したボルネオ団を含む日本軍は6月7日に敵艦船の艦砲射撃を合図に戦闘状態となりました。しかし、敵の猛攻の前に総崩れとなり、6月21日は日本軍の攻撃は無くなりました。この戦闘で生き残ったのは僅か11名で、ボルネオ団員は2名のみでした。

ラブアン島での戦闘で戦死したボルネオ団の戦没年月日には6月20日、21日に集中しています。
皇道産業焼津践団が行動を初めて3年あまりで、本来の目的と違う運命に会いながらも最後の戦闘に出撃された方々の無念を思うと、とても切ない気分になりました。

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