03.太平洋戦争と小笠原諸島

先月号では、小笠原諸島周辺の鰹・鮪漁についてお話しさせて頂きました。

昭和14年から昭和17年にかけて小笠原周辺の海域では鰹・鮪が豊漁でした。豊漁のおかげで島民の生活も豊かでしたが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争の開始により島民の生活は激変してしまいます。

【太平洋戦争と小笠原諸島】
昭和16年(1941年)12月8日。
日本軍はマレー半島に侵攻するとともに、ハワイの真珠湾を奇襲して太平洋戦争が始まりました。

小笠原諸島には、太平洋戦争の開戦に先立ち、海上防備のための要塞が作られました。 小笠原諸島の父島では、「父島要塞」と呼ばれる防備要塞があり、陸軍部隊・海軍部隊・海軍航空隊といった軍隊が防備にあたりました。

もともと父島は、古くから日本の防衛上、重要な島(位置)であるとの認識があり、日本軍は大正9年(1920年)に陸軍の支部を父島に設置しました。

支部設置から3年後の大正12年には父島に要塞司令部が設置されていましたが、太平洋戦争が始まるまでは、父島には守備隊が置かれていませんでした。

しかし、昭和16年の太平洋戦争の開戦により、父島要塞の軍備が整えられました。

【戦時中の島民】
戦争が悪化する昭和19年(1944年)2月になると大本営(戦時中の日本政府の呼称)は、マリアナ諸島やトラック諸島といった南洋諸島の防備拡大を目的とし、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に軍備の拡大を行いました。

この時、戦争の激化に伴い、小笠原諸島の各島の住民6,886名は日本本土へ強制疎開させられました。
しかし、本土への疎開を拒み、軍属として島内に残った島民もいた様です。

小笠原諸島の住民や鰹・鮪漁の船員たちは、島での豊かな暮らしを戦争によって奪われ、尚且つ、住み慣れた島からも離れなくてはなりませんでした。

今月は鰹船から少し話がそれてしまいましたので、来月はまた鰹船に関わるお話をさせて頂きます。