02.戦争とカツオ船

先月号では、カツオ船が動力化になり、船体も大型化が進んだ事に付いてお話させて頂きました。

今月は、カツオ船が大型化した事により、ある一部では悲しい出来事も起こりました。
戦争への参加です。

今月は、カツオ船の悲しい歴史に付いてお話させて頂きます。

《徴用船》
日本が太平洋戦争へと踏み出したのは諸説ありますが、日中戦争からだと言われています。そして太平洋戦争が終結するまでの約8年間で多くの船が犠牲となりました。

当初は、大型船からの荷役や兵士達の食糧運搬など、どちらかと言えば雑用目的に多くの船が徴用されました。この様な船たちを「徴用船」と呼んでいた様です。

日中戦争から太平洋戦争の終結までに全国の民間船の被害は、商船が約2500隻(約800万トン)漁船が約4000隻と言われていますが、詳細が分かっておらず、予想ではもっと多いのではないかと言われています。

私の住む焼津市からも1937年7月から当時の海軍や陸軍・農林省からの徴用が開始されました。戦況が厳しくなる1941年頃には、殆どの遠洋漁船が徴用された為、焼津の漁業は大打撃を受けたと言われています。この時点で焼津港の徴用船は85隻であり、1940年以降の徴用船で無事に帰還できたのは10隻あまりでした。

《徴用船の使用目的》
陸軍や海軍に徴用された船は様々な協力を行っていました。

まずは、初めにも書きましたが荷役や食糧運搬を行う船や、弾薬の運搬も行っている船がほとんどでしたが、中には海軍・陸軍の共同作戦に加わり、海上での封鎖作戦にも協力した漁船もありました。

又、監視艇として、北東太平洋に展開している敵船を監視し、無線で連絡を行っている漁船もありました。

戦時中は、軍船に協力すると言う形で漁業を行っていた漁船もありますが、こういった多くの船は、敵船からの魚雷の楯となる事を強制的に強いられていました。

又、無事に帰還できても取れた魚は軍部の食糧として安価で買い取られてしまい、漁船には少量の魚しか残されませんでした。

戦時中、軍部は徴用船に対して補償内容を提示していましたが、終戦後補償金の支払いは殆ど無く、有ったとしても補償内容とは遠い開きがありました。