02.皇道産業焼津践団

先月号は、時代の流れに飲まれ、戦争に巻き込まれてしまったカツオ船のお話をさせて頂きました。
今月は戦時中の焼津市のお話をさせて頂きます。

《皇道産業焼津践団》
太平洋戦争当時、私達が住む焼津のカツオ船の多くは徴用船となりました。本来のカツオ漁とは異なり、戦時下で軍の協力を強いられる為、 焼津の港はカツオの水揚げは殆どなくなりました。

『このままでは、焼津の港は本当に壊滅してしまう』と危機感を募らせた焼津の水産関係者は、日本の南方占領地域に水産業の街を作り、日々従事する事を目的として会社を設立しました。

この会社が皇道産業焼津践団です。
皇道とは、日本国民が行うべき事という意味であり、水産業により実施して行く、焼津町(現静岡県焼津市)の団体と言う意味の様です。

設立者は松村正之助という方です。

この当時は、戦時統制経済下で食糧も統制下に置かれ、鰹節も例外なく管理下に置かれた為、地場産業の鰹節製造業は大きな打撃を受けました。焼津践団の人々は南方占領地域でカツオ漁を行い、鰹節を生産し、現地の日本軍や日本国内に販売しようと考えた様です。

又、カツオ船は洋上の監視活動に船員ごと徴収された為、カツオ漁の出来る漁船は無くなりました。

このように活力を失った焼津町の活路を見出すため、新たな活動拠点を日本軍の南方占領地域に求めました。皇道産業に参加したメンバーは、水産加工業者はもちろん、漁師・大工・左官等の様々な職種の人々で構成されていました。

その理由は、前記した通り、南方の占領地域に水産業の街・焼津の港町を作るという理念からでした。
当時の焼津町は、町民の大部分が鰹節関係の仕事をしていましたので、『焼津町民本来の生活にもどろう』と考えたのかも知れません。

《南方占領地区へ》
国(正式には日本軍)からの正式な許可が出ると皇道産業焼津践団は昭和17年から18年に掛けて、行動を開始しました。
皇道産業として許可された南方地域は、北ボルネオとフィリピンでした。

しかし、活動を開始し始めた頃から時を同じくして、日本軍の敗走が始まりました。
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現在の焼津港