食材を生かした、季節ごと(四季)の美しい彩りを見せる和食は今や世界に評価されています。しかし、和食も常に変化し続けています。
そこでこの記事は和食の歴史を、どこに転換点があったのかに注意しながら丁寧にお伝えしていきます。大きな転換点は675年に天武天皇によって発布された「肉食禁止令」です。
明治時代初頭に解禁されるまでおよそ1200年間、日本人の肉食は0ではありませんが、西洋と比べれば著しく少ないものになりました。その間、魚介類で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給する健康で長寿効果の高い食生活が続きました。
肉類に比べればどうしても物足りない面もあるため、それが「だしをとる」ことの工夫に繋がりました。お客をもてなす心から見た目の美しさにもこだわる料理様式がいくつも生まれました。
今やユネスコ無形文化財に登録された「和食」はどんな歴史を歩み進化してきたのか、見ていきましょう。
1. 概要
まずは簡単な年表で和食の誕生から発展まで概要を見てみましょう。
縄文時代 | 紀元前11000年頃 | 縄文式土器の発明 | |
紀元前1000~紀元前600年頃 | 稲作の伝来 | ||
弥生時代 | 紀元前400年頃 | 稲作の浸透 | |
飛鳥・奈良時代 | 675年 | 天武天皇「肉食禁止令」を発布 | |
700年 | 文武天皇が蘇(そ)作りを命じる | ||
平安時代 | 800年頃 |
公家により大饗(だいきょう)料理が形成される
| |
鎌倉時代 | 1200年代 | 禅僧により精進料理が広がる | |
室町時代 | 1300年代 | 武家により本膳料理が形成される | |
1300年代後半 | 先に昆布だし、少し後に鰹節だしが始まる | ||
安土桃山時代 | 1500年代後半 | 茶道から懐石料理が発祥 | |
江戸時代 | 1600年代 | 料亭で会席料理が出される | |
1600年代後半 | 1日3食の習慣が定着 | ||
明治時代 | 1800年代後半 | 鎖国が終わり、牛鍋やカレーライスが流行 | |
平成時代 | 2013年 | 和食がユネスコ無形文化遺産に登録された |
2. 縄文時代
2-1 「煮る」「茹でる」を可能にした縄文式土器の発明
この時代の最大の特徴は縄文式土器です。この非常に深い土器を手にしたことにより、縄文人は煮込んだり、茹でたり、あるいはスープを作ることができるようになりました。それ以前の料理方法は、焼く、燻製、天日干しくらいでしたから、縄文式土器の発明は日本の食の歴史にとってとても大きな出来事と言えます。
画像引用 インターネット記事 縄文時代の縄文土器はどんな土器用途?特徴は?
https://lifehack-analyzer.com/jomon-pottery/
縄文時代を語るうえで、縄文式土器と並ぶキーワードは貝塚です。貝塚は関東地方を主体に全国で約1600か所見つかっています。その貝塚で見られる貝はアサリ、シジミ、ハマグリ、カキ、サザエ、アワビなど種類も豊富です。縄文人は貝を縄文式土器で煮込んで食べていたことが分かりますね。
現代人の私たちも、貝の味噌汁や貝汁は旨味がとても強くて美味しいことを知っていますよね。縄文人はその原因がコハク酸の成分にあるということは知らなくても、食においてすでに「旨味」を味わっていたのです。このことは現代において世界から評価される和食文化の萌芽と言えるでしょう。
2-2 稲作の伝来も、まだ狩猟の補完的な位置づけ
縄文時代後期に中国から稲作が伝来しました。
しかし、この時代ではまだ米は狩猟でも獲物が少なかった時の補完的食料という位置づけでした。
紀元前1000年から紀元前600年頃、縄文時代後期に、中国の長江下流や朝鮮半島南部から現在の福岡県や佐賀県に渡ってきた人々が、日本で稲作を始めました。
ちょうどその頃、気候の変動もあり自然の産物だけで食料の必要量の確保が難しくなっていた縄文人は、彼らの技術を見たり聞いたりして、狩猟の補完として、稲作を始めたのです。
3. 弥生時代
3-1 稲作の浸透、米が主食になる
縄文時代後期に北九州に伝来した稲作は、およそ100年で本州北端の現在の青森県まで伝わりました。
その間に稲作の技術も向上して、米は狩猟で獲物が少なかった時の補完から、弥生時代には米が主食になっていきました。
3-2 「ご飯におかず」スタイルの形成
画像引用 インターネット記事 弥生ミュージアム
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/foods01.html
弥生時代になって「ご飯におかず」という食事のスタイルが発生しました。図のように米は高杯(たかつき)に盛って、おかずは魚や貝、鳥獣の肉、きのこ、山菜など多彩でした。
おかずの食べ方で特筆するべきなのは、この頃から魚を刺身で食べていたことです。中国の歴史書「魏志倭人伝」に「日本人は生で魚を食べる」という記述が残っています。
4. 飛鳥・奈良時代
4-1「肉食禁止令」が健康長寿効果の食生活の原点
675年に天武天皇が発布した「肉食禁止令」は、現代まで繋がる健康長寿効果がある和食文化の原点と言えます。
肉食を禁じられたことにより、魚で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給するという、世界で類を見ない健康長寿効果の高い食文化を形成するきっかけになりました。
また、肉食が出来ない物足りなさを補おうと、だし取りの工夫や、彩も鮮やかなおもてなし料理、後の時代の精進料理や本膳料理や懐石料理に繋がっていくのです。
この「肉食禁止令」は和食の歴史において重要な意味を持った法律です。
厳密に言えばこの法律により動物に肉が全て食べられなくなったのではありません。一部の残酷な方法の狩りは禁止されたものの、牛馬犬猿鶏以外の動物を食べることは禁止されていません。
しかし、この禁止令により、日本人の食卓から動物の肉が0ではないものの激減したことは確かです。
日本書紀の中には「牛馬犬猿鶏の宍(しし:肉のこと)を食うことなかれ。この他は禁令にあらず。もし犯す者あらば罰せむ。」とあります。
この禁止令が法律として廃止されたのは1871年(明治4年)です。開国し西洋文化が流入し、牛鍋が流行った時代ですね。それまでおよそ1200年もの間、肉食を避ける文化が続いたのです。
5. 平安時代
平安時代は貴族文化の時代です。その中で儀式を重んじた形式の料理が発祥してきました。
5-1 中国の影響が大きい、公家のおもてなし料理、大饗(だいきょう)料理
大饗料理は日本で最も古い儀式料理です。
藤原氏など高位の貴族が、大臣に任じられた時や正月に、天皇やその親族を招いて、饗応した(もてなした)料理です。
画像引用 インターネット記事日本料理のルーツその2
https://ameblo.jp/wa-tauumiwo/entry-12378388387.html
大饗料理の形式は中国の影響を受けています。
上の絵から分かるように、料理を盛りつけているお皿は全て1つの大きな卓に乗せています。
また、お皿の数は必ず偶数です。
後で紹介します室町時代発祥の本膳料理は、膳をいくつにも分けています。また日本には偶数を嫌い、奇数をおめでたいとする風習があります。その中でお皿の数を偶数にすることに中国の影響を強く感じさせます。
料理内容は、魚や干物を切って並べ、膳の手前側に料理とは別に塩や酢などの調味料を入れた小皿を用意して、好みの調味料につけて食べました。料理としては原始的で、それぞれが餃子のたれを好みに合わせて作って食べることに似ています。
尚、894年に遣唐使は廃止された後は、中国の影響は薄れていき、刺身の綺麗な断面を見せる盛り付けの工夫など日本的な特徴が表れてきました。
5-2 公家に人気、蘇(そ)という乳製品
奈良時代の肉食禁止令の章で一言だけ触れた「蘇」という乳製品が貴族の間で人気となりました。これは牛乳を煮詰めて作った、ほぼ固形状の食品でした。この記事を書くにあたり参考文献の一つの著者永山久夫氏は古い文献から蘇を再現してみたそうで、その味は上等なチーズケーキかミルクキャラメルのような甘美なもので、日本のバターあるいはチーズの元祖かもしれないと記しています。
また、肉食禁止令の下、健康面でもたんぱく質の補給源としても大切な役割を果たした食品です。
6. 鎌倉時代
平家を倒して鎌倉幕府を開いた源頼朝は、公家貴族の華美贅沢を嫌い、質素倹約に努めました。当然この時代の特徴は質素倹約になります。
6-1 禅僧が大豆などで肉食の味に近づけた精進料理
既存の仏教の教えに不満を覚えたこの時代の僧侶は中国で禅宗を学び、それと共に精進料理を日本に伝えました。
画像引用 インターネット記事 知られざる精進料理の世界
https://magazine.hitosara.com/article/668/
この時代も当然肉食禁止令が生きています。特にそれを強く守ろうとしたのは僧侶でした
精進料理は肉食を断つため、野菜などの植物性の食材で肉に近い味が感じられる工夫がされています。植物性の食材を味の濃い動物性食材の味に近づけるため、小麦粉や大豆粉などに植物油や味噌などインパクトの強い調味料と合わせる必要があります。
それらの料理技術を禅宗とともに中国から持ち帰った鎌倉時代の僧侶が日本に精進料理を広めたのです。この料理の料理人は僧侶です。今でも「精進します。」という言葉を使いますが、精進という言葉には、「修行する。」という意味があるのです。
7. 室町・戦国・安土桃山時代
鎌倉幕府が倒された後、開かれた室町幕府は京都に置かれました。京都の公家文化と距離をおいた鎌倉幕府と違い、武家社会でありながら公家との交流は盛んになり、その中で武家による儀式を重んじた料理が発祥しました。
7-1 日本料理の基本になった、武家のおもてなし料理、本膳料理
本膳料理は武家がお客を饗応する(もてなす)ための料理で、儀式としての要素が非常に大きい料理様式です。
画像引用 インターネット記事 料理の雑学本膳料理とは
https://ameblo.jp/wa-tauumiwo/entry-12381839166.html
本膳料理は膳を用いて、奇数の膳組を基本としていたことから、極めて日本的な要素が強い儀式料理でした。平安時代の章で紹介しました大饗料理が1つの大きな卓に皿を全部載せて、その皿の数が偶数であることから中国の影響が強いと説明しましたが、それと対照的でこの時代に日本式の儀式料理の完成を見たと言ってよいでしょう。
本膳料理は酒を中心とした献部と、食事を主とする膳部からなります。献部は特に儀礼的要素が強く(現在の三々九度に形式がわずかに残されています)その後、饗応の規模により一の膳のみなのか三の膳までか五の膳までか(膳は1度に出されます)違いはありますが、食事の合間に能が演じられるなどして全体が終わるのは夜を徹することもあったといわれています。
7-2 先に昆布、少し後に鰹節によるだしの使用始まる
昆布だしが使われたことが分かる最古の文献は室町初期(1300年代後半と思われます)の「庭訓往来」という文献です。それ以前は、平安時代の大饗料理で説明したように、食べ物とは別に塩や酢という調味料を用意して味をつけていましたね。
一方「かつほぶし」初めての文字が見られるのは「種子島家譜」(1512年)という文献です。かつおによるだしが用いられたのは1400年代だと考えられています。だしとして昆布より遅れた理由は、昆布はだしに適した品種を選ぶだけで良いのに対し、鰹節の製造は当時としては難しかったからです。
その後江戸時代には「昆布と鰹節のあわせだし」の記述があり、現代に近いだしの取り方が発明されたことがうかがえます。
7-1でお伝えした本膳料理には昆布だしやかつおだしが使われています。
7-3 茶道から発祥した懐石料理
懐石料理は茶道の中から発祥してきた料理です。
戦いに明け暮れた戦国武将は精神の安定を求め、茶の湯を重んじました。
豊臣秀吉によって一応の安定がなされた安土桃山時代に、千利休が茶道を確立して、その中から懐石料理が生まれたのです。
画像引用 インターネットサイト茶懐石料理とは!茶懐石の献立形式
https://kondate.oisiiryouri.com/tyakaiseki-no-imi-yurai/
基本的には「本膳料理のような堅苦しい作法に縛られず、お茶を飲む前に料理を楽しみましょう」というスタンスです。茶会自体はもちろん千利休よりずっと以前からあったのですが、利休は茶会の最後の行われた酒宴をプログラムから外しました。にぎやかに騒ぐ酒の要素を茶道から外したのでした。懐石料理は利休が大切にした「一期一会」の精神が生かされています。「その場その場の出会いを大切にする」という精神が、特に旬のものにこだわる理由になっているのです。
千利休の時代には「懐石」という言葉は使われていなかったと言われています。むしろ「会席」を一般的に使っていました。しかし、次の章で紹介する、江戸時代に高級料亭が出現しそこに集まった人たちが食べる料理を「会席料理」と言ったことから、後の時代に区別するために「懐石料理」と呼ぶようになりました。「懐石」とは禅の修行僧が懐に温めた石を入れて身体を温め、空腹を凌いだという故事からきています。
8. 江戸時代
信長、秀吉を引き継いだ徳川家康が、江戸幕府を開くことにより太平の世が訪れました。
8-1 現代の宴会料理の原型になる会席料理
画像引用 インターネットサイト春の会席料理赤穂温泉絶景露天風呂の宿銀波荘https://www.tripadvisor.jp/LocationPhotoDirectLink-g1022825-d1050008-i101824966-Ginpaso-Ako_Hyogo_Prefecture_Kinki.html
会席料理はそんな太平の世に料亭が出現してそこで出された料理のことです。元々は連歌や俳諧の後、俳人たちが他も染むための料理として出されました。
7-3の懐石料理は千利休が茶会から酒宴を外したと説明したように酒の要素がありませんが、この会席料理は酒を中心とした宴会料理という性格があります。そのため、初めにごはん、吸い物が出てくる懐石料理と反対で、酒を飲みながら、前菜から順番に出されて、最後にご飯と汁が出されます。
8-2 1日3食の習慣定着
1日3食という現代と同じ習慣が定着したのは、江戸時代の元禄期(1688~1704年)頃です。それ以前は1日2食が普通でした。
この頃1日3食の習慣が定着した理由は以下の事が考えられます。
- 戦国時代の武士が体力をつけるために1日3階食事をとった習慣が庶民にも浸透しました。
- 1657年の「明暦の大火」という大火事で大被害を受けた江戸の町を復興するために集まった大工や左官やなどの肉体労働者が1日3回の食事をしました。
- 流通が発達して、屋台や飯屋など外食産業が栄えました。
- 照明用の菜種油が広く出回り、人が起きている時間が長くなりました。
以上のことから、現代と同じ習慣が定着したのです。
8-3 江戸の味そば、てんぷら、うなぎ、握りずし
では江戸の市井ではどんな料理が好まれていたでしょう。江戸の味四天王といえば、そば、てんぷら、うなぎ、握りずしです。
そば
そばは中世まではそば粥やそば餅などとしては食べられていました。しかし今のように麵としては食べられていませんでした。理由はつなぎに粘りがなく切れてしまうからでした。つなぎに小麦粉を混ぜて面を切れないように作ったのが江戸時代のことだと言われています。
現代は東京はそば、関西はうどんが好まれる、かなりはっきりした傾向があります。しかし江戸幕府が開かれたばかりは、元からの江戸の住民の人口は少なく関西からの移住が多かったためその傾向ははっきり出なかったようです。やがて江戸の人口が増え、もともとのそばの産地の信州や関東東北からの移住が増えるにつれ、江戸でのそば人気は高まりました。
てんぷら
てんぷらの語源は戦国時代の終盤にポルトガル人によりもたらされたテンペロ(調理)が有力です。長崎、関西、江戸と西から伝わってきましたが、関西より江戸で人気が出たのは、屋台で揚げたてを提供するという形が江戸っ子の嗜好に合ったからのようです。
うなぎ
江戸前うなぎが日本で1番美味しいと言われた理由は、日本一贅沢なものを食べている江戸っ子の残飯が流れてくる大川に住んでいるからでした。日本一贅沢なえさを食べているという訳ですね。産地にこだわる江戸っ子は江戸前うなぎにこだわりましたが、土用の丑の日はそれだけではさすがに足りず、他地方産のうなぎを食べました。それを風流に「江戸後うなぎ」と呼びました。
握りずし
握りずしが登場する前には関西発祥の箱鮨がありました。酢飯を箱に詰め魚などのネタをのせ押してからそれを切って食べるものです。江戸っ子の気の短さはこの時間が待てませんでした。握りずしは江戸っ子の短気さが発明させた食べ方です。
9. 明治・大正・昭和時代
江戸幕府が倒れ、明治時代は西洋文化が流入してきました。そして1871年(明治4年)に、「肉食禁止令」がおよそ1200年ぶりに解かれたのです。
9-1 西洋文化流入も和食化して受入れ
開国後の西洋文化の流入は食文化にも及びましたが、西洋文化をそのまま受け入れるのではなく和食化して受け入れたのです。
例えば、牛肉は「ステーキ」ではなく「牛鍋」(今でいうすき焼き)として浸透しました。またインド料理のカレーが、当時インドを植民地としていたイギリスを通して入ってきました。そしてフランス料理がもとになってコロッケを食べるようになりました。
牛鍋を西洋料理とか、日本の食卓に出るカレーライスをインド料理と思う人はいないでしょう。
9-2 ファミレスやコンビニの登場
昭和の終盤ころには、インスタント食品の多用、ファミリーレストランやコンビニエンスストアの登場などで、今の食生活とほぼ同じ様式となりました。
太平洋戦争の敗戦により、困窮を極めた日本経済も、朝鮮戦争特需をきっかけに立ち直り、高度成長期を経て、昭和も終盤になると、現在とほとんど変わらない食生活になったのです。
10. 平成時代
ますます便利さが追求される平成の世の中で、自然を大切にする和食が世界で評価されました。
10-1 「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録される
2013年(平成25年)12月、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。
農林水産省による和食の特徴は次の4つです。
- 多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
- 健康的な食生活を支える栄養バランス
- 自然の美しさや季節の移ろいの表現
- 正月などの年中行事との密接な関わり
「無形文化遺産」とは、芸能や伝統工芸技術などの形のない文化であって、土地の歴史や生活風習などと密接に関わっているもののことです。
ユネスコの「無形文化遺産の保護に関する条約」では、この無形文化遺産を保護し、相互に尊重する機運を高めるため、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」というリストを作成しています。日本では「歌舞伎」「能楽」など21件(2013年4月現在)が登録されています。
注)「世界遺産」は建築物や自然などの有形のものを対象にしている点が異なっています。
11. まとめ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
和食にはとても長い歴史があります。肉食を禁じられていた時代から、少しでも美味しくなるように、お客様に喜んでもらえるよう彩も美しくと、努力を重ねてきました。その結果、和食文化は世界に評価されるものになりました。ぜひ、私たちもこの和食文化を守っていきたいですね。
※参照
「和の食」全史 永山久夫著 河出書房新社
鰹節 上巻 宮下章著 社団法人日本鰹節協会発行 図書印刷(株)
インターネットサイト日本食の歴史 農林水産省
コメント